令和6年能登半島地震の被災地に救護班を派遣(小川赤十字病院 医療救護班)
J:COM安心安全チーム、埼玉担当の山本です。
私は「和紙のふるさと」ともいわれる埼玉県小川町に行ってまいりました。
小川町に来た理由
今年(2024年)、新年を迎えたばかりの元日に襲った「令和6年能登半島地震」。震源は石川県の能登地方で、地震の規模を示すマグニチュードは7.6。
年が明けて早々に起きた震災だけあって、皆さんの記憶にも鮮明に残っているかと思います。
現在、ライフラインの復旧や仮設住宅なども出来てきており、復興の兆しがようやく見えてきました。
地震が起こって間もなく、まだあまり被害の詳しい情報が入ってきていない1月6日から10日の間、小川町にある「小川赤十字病院」の医療救護班10名が真っ先に珠洲市に向かいました。
その時の様子を、今回班長だった医師の吉田さんがお話しくださいました。
吉田さんは小川赤十字病院で外科部長・消化器科部長などを歴任する医師。過去には東日本大震災、熊本地震、令和元年台風19号でも災害派遣で活躍されています。
派遣までの経緯
震災が発生し、被災地の支援として派遣されるまでのプロセスには2つのパターンがあります。
一つ目は、国が被災都道府県からの具体的な要請を待たないで支援する「プッシュ型」。
二つ目は、被災地都道府県から国へ要請して支援する「プル型」。
今回はその2つの動きがほぼ同時にあったそうです。
そこで関東を代表する「日本赤十字社 東京都支部」から埼玉県支部に連絡があり、小川赤十字病院へ要請が来たとの事。
災害医療コーディネーター
吉田さんは日本赤十字社で任命されている「災害医療コーディネーター」の
資格を持っており、直接連絡を受けたあと、院長と話をし派遣を決めました。なんと、その連絡が来たのは震災翌日の1月2日の夜との事。
それから各自連絡をし6日の出発に備えたそうです。
被災地へ向かうまでの道のり
出発し、被災地に近づくにつれてその惨状が見えてきます。
家の倒壊などを目の当たりにし、吉田さんが思ったことは「劣悪な環境」。
そして、珠洲市まで通れる道が決まっているもののその道路情報が無く、倒壊した道に迷い込んで引き返すことをしながら目的地に到着したそうです。
被災地ではテントで過ごす
吉田さんが現地に着いた初日、当日の天候は雪。
被災地に着くとテントを設営し、そこが拠点となります。
「雪も降り寒くはなかったですか?」と聞いたところ、テント内はとても暖かかったそうです。
何でも2重の幕があり、かなり丈夫なテントらしいです。
気密性も高く、尚且つ換気もでき、ストーブもあり、快適との事。
体が第一な医療現場で、ご自身が体調不良になったら話になりません。
被災された方が注意しなければならない事
避難生活が長くなればなるほど、住環境が崩れやすくなると語る吉田さん。
それは、1人の力だけで乗り越えることは難しいので、常日頃から行政をはじめ自治会(町内会)と避難所運営の仕方(トイレや段ボールベッドなどの設置場所)について相談しておくことが大切と仰っていました。
土足で入らない!!
また、吉田さんは例えば学校などを利用した避難所には「土足で入ってはいけない」ことも仰っていました。
その理由として、靴に付着した土や泥で避難所に入ってしまった場合、粉塵が部屋の中に舞います。それにより肺炎や気管支炎を起こす人が出るかもしれません。またその中で食事をした場合、胃腸炎になるもリスクがあるそうです。
避難所で過ごす際には、より慎重な行動を起こさなければ、自分はともかくほかの人も病気に繋がる影響がある事を教えてもらいました。
(今回の能登半島地震でも実際にあったそうです)
救護中に助けになった言葉
吉田さん曰く、被災者の方に言われる「ありがとう」の一言がとても励みになるそうです。
自分たちの行動でどれだけの人が助かっているのか分かりませんし、助けになっていないかもしれませんが、感謝して頂けることが心の救いになったそうです。
救護に行ってみて
今回は短期間でしたが、次回は長いスパンで行くことによって、もう少し全体の流れを見られるので、もっと現地にいてあげられれば。
…と次回の救護活動にも意欲を見せていました。
(実は吉田さん、この取材の翌日から再度現地入りしました。今回は救護班をまとめる立場としてご活躍されたそうです)
最後に、今回の能登半島地震により亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、.そのご家族や被災された方々に、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。
取材協力:日本赤十字社埼玉県支部/小川赤十字病院