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【阪神・淡路大震災】写真とともに振り返る女将の記憶とエトセトラ

J:COM安心安全チーム、関西担当の松本です。

(2024年)6月15日の放送回で神戸市須磨区の喫茶店「リバティールーム カーナ」の公衆電話を取り上げたんですが、もうご覧になられましたか?

来年、阪神・淡路大震災が起きてから30年の節目を迎えるのですが、実はお店の中に、震災当時の写真がいくつか飾られているんです。

せっかくなので、女将の岡本美治さんに、当時のことをいろいろ聞いてみました。

飾られた震災当時の写真。色褪せ具合が過ぎし年月の長さを物語る。

【阪神・淡路大震災の記憶】

喫茶店「リバティールーム カーナ」の岡本美治さん

地震発生時は自宅にいた岡本さん。
家族が全員無事であることを確認すると、自宅から1キロほど離れたお店を見に行くことにしました。
お店は残っていたのですが、中に入ることができず、その日は諦めて自宅に引き返すことにしたそうです。

《途絶えた頼みの綱》

『大事なお店と繋がっていたい』…その一心で、自宅に戻ってからは家の電話から店の電話に何度もかけたそうです。
「トゥルルル」と呼び出し音が鳴れば、まだそこに店があるということになります。
30分~1時間の間隔でお店の”生存確認”をしていたんですが、夜9時ごろ、ついに呼び出し音が「ツー、ツー…」という音に変わりました。

『もうあの店は、無くなってしまったんやね…』

原因は火災。
東側から火の手がまわり、店が飲み込まれてしまったのです。

揺れに耐えた店も、火の手の前には無力だった

《復活の狼煙 営業再開1番店》

店が焼失して数日、自宅に身を寄せていた近隣の学生らと共に、店跡のがれきを片付けていました。
すると、いろんな人に道案内を頼まれる回数が日に日に増えてきたそうです。ほとんどが、遠方から身内の安否を確認するために訪れた人。

寒空の下、慣れない土地で途方に暮れる人たちを見て、「私になにかできないだろうか」と思い、考え付いたのが、あったかいコーヒーを振舞うことだったそうです。

震災発生から約2週間というスピードで復活を遂げた

岡本さんは、取引先と交渉してコーヒー豆を調達するとともに、まだ使える食器や近隣の小学校のイスや机を譲り受け、震災から約2週間後、焼け跡に「営業再開1番店」カーナを復活させました。

「あそこに行けば、あったかいコーヒーが飲める」
そんな噂が瞬く間に広がり、連日多くの人がやってきました。

集まった人から伝言を頼まれる件数が増え、岡本さんは手作りの伝言板を設置することにしました。
周囲は焼け野原で電話がなく、この時の連絡手段といえば、伝言板ぐらい。
だからこそ、この後に仮設店舗が出来たとき、知り合いの協力もあって公衆電話が設置されると、まわりの人たちはすごく喜んでいました。

営業再開1番店に掲げられた伝言板

《エトセトラ:偶然の出会いから生まれた看板の話》

当時、お店の手伝いをしていた芸大生らが、アートで店を盛り上げようと、看板やオブジェを製作しました。
そのうちの1人が、茨城にいる仲間にも声を掛けて、お店に3日間やってくることになりました。
その中に、現・東京芸大の学長、日比野克彦さんがいました。

日比野克彦さんと制作途中の初代看板
完成した看板。のちの仮設店舗、現在のお店にもしばらくの間、飾られた。

看板が完成してから数年後、再び日比野さんがお店にやってきました。
その頃には看板が傷んでいたようで、一度日比野さんが引き取り、修復することになりました。
そして、帰ってきた看板が↓コチラ↓

よーく見ると、日比野さんの名前が入っています

同じものがキレイになって届くと思っていた岡本さんは、開封したとき、かなり驚いたそうです。手間をかけて看板を作り直してくれたことに、岡本さんは感慨もひとしおだったと話します。

《直接話を聞いてみよう》

岡本さんの経験やこぼれ話をご紹介しましたが、阪神・淡路大震災を経験した人が年々減りゆく中、須磨の復興の中心になっていた岡本さんの存在は、とても貴重だと思います。
ぜひ、震災の経験有無に関わらず、直接岡本さんに話を聞きにいってみてください。

私事ながら、親戚がお店の近く住んでいるので当時、近くを通っていたのですが、岡本さんと当時を振り返ることで、記憶から抜け落ちていたまちの様子が蘇ってきました。
当時のことを知り、または思い出し、誰かに伝えていくだけでもきっと誰かの役に立つと思います。
これからの暑い時期、キンキンに冷えたアイスコーヒーで涼みつつ、チャンスがあれば岡本さんに話かけてみてくださいね。

取材協力:リバティールーム カーナ 岡本美治さん/日本公衆電話会 兵庫支部